ちょっとだけ長い、僕の吉祥寺(と三鷹)時代の話

今年6月、5年振りに東京で個展を開くことになりました。場所は、吉祥寺です。
その、吉祥寺と僕にまつわる、ちょっとした話です。
(このテキストは、昨年5月、僕のFacebookのノートに書いていたものに加筆し、この度の東京展開催のお知らせに合わせて一部加筆修正したものです。)


■【左】ブックスルーエのカバー(吉祥寺在住のイラストレーター キン・シオタニさんの筆で有名)
【右】僕の古巣・東西書房のカバー(のちにカバーが変わる前のもの。東西のイメージでコンパスだった)

昨年、二度吉祥寺の街を訪れた。それにはきっかけと、ちょっと昔から今に続く記憶があって。
手元に一冊のムックがある。『吉祥寺のほん』(新潮社)。昨年5月に迎えた井の頭公園開園100周年の記念出版として、同じくその記念映画として公開された『PARKS パークス』(DVDリリース/レンタル中)のミニフィルム/テキストブックとしても刊行されたこのムックをめくっていると、吉祥寺の本屋さんを取り上げた章があった。

僕は吉祥寺と西荻窪のほぼ境目、東京女子大学のほど近くに2003年まで10年近く住んだ。もちろん吉祥寺が我が街だったのだが、仕事場は隣の三鷹にあった。三鷹駅南口広場の脇、のちに駅ビル・三鷹ロンロン(現・アトレ・ヴィ三鷹)に移って営業していた、東西書房という書店だった。東西書房は武蔵小金井や葛西、横浜の東戸塚やさらに以前は関西圏にも店を持っていた小さなチェーンだが、それぞれの地域に密着した店だった。ここに勤めながら通勤途上、休みの日に写真を撮り、2001年に上野の隣の御徒町で初個展を開いた。
三鷹と吉祥寺は隣同士であり、ちょっと毛色は違いつつもひとつの生活圏。だから本屋もある意味競争で、ある意味補完しあっていた。三鷹駅前には他にも第九書房という店があって、そして吉祥寺にはもっと多くの店があった。駅ビルロンロン(現・アトレ)の弘栄堂書店、パルコブックセンター、東急の紀伊國屋書店、南口のブックスいずみ、そしてサンロードのアーケードには誰もが知る個性派・ブックスルーエ。
うちは吉祥寺の多くの店よりも規模は小さかった。ない本は取り寄せをもちろんしたが、どうしても急ぎのお客様にはそんな吉祥寺のお店をお勧めしたりもした。

一番長くお世話になった店長の久保さんは大阪の泉州の生まれ。赴任当時は、正直反りが合わないというのか、僕とはほとんど会話もなかった。情より理で動く人という感じで、関西人にしては珍しいイメージだった。でも、当時を思い出すに、僕も意固地なところがあったし、勉強不足な点もあった。仕事は楽しかったのだが、ルーティンワークを毎日やっている感覚も大きかった。日曜日を除けば毎日必ず書籍と雑誌の入荷が一日2便あり、少量多品種業界の極みである書店の仕事はそれをこなしながら自らの担当の棚を作り、後輩たちを教えながらレジを打ち、出版社の営業さんを応対して進めねばならない。
だが、いつの頃からだろうか、話をよくして、その話が合うようになった。きっかけも正直記憶は薄いのだけど、もしかしたら、僕が作っていた小さなPOPを褒めてくださったのだと思う。その頃からこういうものを作るのは得意中の得意。当時はあまりそういうことをする書店はまだ少なく、うちにおいても出版社から送られてくるPOPや陳ビラ(縦長の細いポスター。平積みの本の下に挟んである)をそのまま使っていたのだが、それをちょっと工夫していろいろと作り始めたのを気にかけてくれたのだろう。
ある時、閉店作業を終えて、飲みに誘ってもらった。駅近くでビールを飲みながら、僕は写真をやっていることとか、独学で写真家を目指していること、その僕がなぜ本屋で働いているのかとかを話したと思う。久保さんはこう言ってくれた。「パッパッとキッチリ決めるところを決めたらええねんで」。仕事は楽しかったが、まだ何者にもなれていない。一番やりたいことをやれていない。水面下でひたすら足漕ぎを続ける白鳥のごとく焦燥感の塊だった僕は、それで少し、いやだいぶ楽になれたのかもしれない。
そこで写真集・芸術書を担当に加えてもらった。のみならず、旅行関係書も触らせてもらった。フェアを連発した。POPにポスター、ディスプレイも全部作った。そして一言レビューを載せたブックリストを作って配布した。アタリもハズレもあったが、それでも店頭を賑やかすことができた。売りたい本を売れるように仕掛けることという本屋として最大の喜びを、僕は味わせてもらったのだ。それは小さな規模の店だからこそできたことだろうし、生まれ持っての商人気質にして絶妙な情と理のバランスの持ち主、何より本が大好きな久保さんや、先輩・同輩・後輩、そして地域のお客様に支えられてのことだった。

22時に店を閉める。三鷹駅から玉川上水を経て万助橋で公園通りを左に折れると、両側は鬱蒼とした森。それが井の頭公園だ。
時にバイクを止め、公園を少し歩く。ぽつぽつと街灯が灯り、そして池をまたぐ七井橋の欄干にまっすぐな光の線が浮かぶ。森と水にろ過される空気はいつも穏やかだ。さすがに桜の頃は騒々しかったが(当時は22時までという制限も無かった)、そんな景色を愛でるのは無上の喜びだった。
楽しいことがあった日も、正直しんどかった日も、それに救われて、また家へと向かった。明くる日は逆に、公園通りから玉川上水の緑に気持ちを洗って通勤した。
休日は都心にも行ったが、大概は吉祥寺の街で全てが事足りた。地方都市育ちの僕にとって、吉祥寺という街はなんでも揃い、東京暮らしならではの大概のことを基本的に充足できたこともまた、この街を好きになった理由である。
2003年7月、予てからの夢を新天地で実現するために会社を辞めるまでの、吉祥寺と三鷹を往復しながらの日々の景色は、札幌に移ってからも僕の中にあり続け、東京に行くたびにできる限り時間を作って、当時を少しでもトレースするように街を歩いている。それが、吉祥寺の街と井の頭公園、そして時を超えて交わる若者たちと音楽を丁寧に描いた一本の映画によって、一気に呼び覚まされた感覚を僕は今覚えている。

『吉祥寺のほん』のそのページには、パルコ・紀伊國屋・ルーエ以外、僕が住んでいた当時の店名はもうない。そして三鷹駅前の二つの書店も、どちらも看板が変わった。
かつての東西書房には、文教堂書店が入っている。2010年の冬、久方振りに訪ねた折に古巣の名が消えたことを知った。その天井に見つけた「防犯カメラ作動中」の看板は、なんと僕が東西書房時代に作ったもの、そのままだった。内装も書棚もレジカウンターの位置すらも変わっていたが、それだけがそのまま。僕は本当にうれしかった。うれしくて、そこの店長にそのことを話そうかと思ったくらいだ。もっとも経営者が変わっているわけで、そのことを知る由もないのだから言っても仕方ない。それでも、僕が確かにそこに、この街と界隈にいたことの証を見つけた。その後も再訪の度にそれがまだあることを確認し、昨年の暮れにも健在だった。僕は何度でもうれしくなりに、そこにこっそりと行っている。

吉祥寺も三鷹も、今も変わらずに僕の好きな街だ。
変わり続けることを運命とする、街。吉祥寺も三鷹も変わり続けているが、それでもその街がその街であり続けようとする限り、僕はその街に足を踏み入れる度、何度でもうれしくなれるはずだ。
2013年以来の東京での個展を実現させる時には、吉祥寺の街でやりたいと思ってきた。昨年ご縁あって、ここなら僕の作品がきっと似合うという場所を見つけることができた。
作家としての翼を広げるための新たな出会いと共に、この街であの頃お世話になったり交わった人たちとも、時を超えてまた会えるかもしれない。十数年を経て会えることが仮になくとも、一時期に深く馴染んだこの街の空気に、今続けている旅の景色を重ね合わせることをやってみたいと思っている。

Share on Facebook0Tweet about this on TwitterEmail this to someone

Yuuki URYU

この「私信」を書いている人。 北海道・札幌を拠点に、写真作家として活動。他にも紙媒体を中心としたデザインの仕事や、編集・インタヴューからラジオパーソナリティの経験など、もはや自分は何屋なのかと思い続けて幾星霜。 昨今のSNS的/メッセンジャー的レスポンスに疲れて、ただ「私信」を書いてみたいと思い、実は2004年から設けているこのブログを復活。