『ぼくを葬る(おくる)』

d1fec571.jpg人間はいつか、その生涯を終える時が来る。
人によってその時は遅く訪れ、また一方でそうでないことも、現実にある。
ただ、その後者を、しかも31歳の若きフォトグラファーが、突如として受け入れられるのだろうか。
これは、その最後の3ヶ月の物語である。


パリの新進気鋭のファッションフォトグラファーが、雑誌の撮影中突然倒れた。
医師から聞いた言葉は意外なものだった。病名はがん、余命は「3ヶ月かもしれないし、1ヶ月かも、1年かもしれない」。「化学療法に苦しむのならそんな措置はいらない」、そう問い質した末に聴かされた余命は、「3ヶ月」。
彼の表情にはまだ実感が浮かんでいない。仕事は順風万帆、愛する同性のパートナーがいて、何一つ不自由ない生活。ただ、姉とはここしばらく不仲が続いている。
父や母、パートナーにも、自分の命のことはなかなか切り出せない。なんとも形容できないいらだちが姉とのけんかを引き起こし、パートナーと愛を深めた直後に別れを切り出す。
死への恐怖が少しずつ自らを苦しめていく。一人の部屋の白い壁に、やるせない思いとともに自らの頭を何度もぶつける。自分の立ち位置が分からなくなった彼は、自分のルーツである故郷に祖母を訪ねる。その途中で出会ったカフェのウェイトレスから、命にまつわるある相談をされるのだが、自分が今抱いていることを思うと簡単にYesとは言えない。祖母に初めて自らの運命を打ち明けると、「今夜あなたと一緒に死にたい」と孫を抱きしめる。

出会った人、眼に映った光景に、彼はシャッターを切っていくのだが、それは美しく着飾ったモデルを撮っている時とは正反対の、一枚一枚を心から慈しんで撮る姿である。
急激にやせこけ、食べたものも全て吐き、最低限の薬だけを飲み、それでもたばこを口にする。そして、撮る。
最後に彼は、この世に短いながらも生きた、ある「証」を残すことを決意するのだ。

 ・・・

フォトグラファーに限らず、アーティストとして生きる者は、心のどこかに孤独を抱いている。
それがなければ、きっと何かを生み出すことなどできないのかもしれない。
でも、たくさんの人たちに囲まれながら、僕たちは日々を重ねている。重ねていく。
彼が自らの運命をひとりひとりに、自分なりの方法で伝えようとした姿は、痛いくらいせつない。
でも、それは彼なりの正直な方法だったのだろうと思う。
患者への告知をめぐってさまざまな問題が今もある「がん」という病を自ら明らかにすることにどれほどの勇気がいるかは、有名人も市井の人も変わらない。

作中、彼が撮った写真が画面に登場することはなく、あくまでカメラを構えている姿があるのみであるが、それでもだんだんと彼の表情がおだやかになっていくのを見ていると、決して運命のすべてを受け入れているわけではなくとも、真正面から向き合っていることを感じる。
最期を迎える場所を自分で定め、そこへと向かう彼の姿のすがすがしさが胸に残る。

それから、この作品、エンドロールの最後の最後まで、席を立たずに見て欲しい。
ここまで余韻を抱かせるエンドロール、そして彼が最後に残した写真を想像させる時間……まさに「暗室の時間」を監督は作ってくれたのだから。

■札幌では5月中旬頃まで、シアターキノにて。

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Yuuki URYU

この「私信」を書いている人。 北海道・札幌を拠点に、写真作家として活動。他にも紙媒体を中心としたデザインの仕事や、編集・インタヴューからラジオパーソナリティの経験など、もはや自分は何屋なのかと思い続けて幾星霜。 昨今のSNS的/メッセンジャー的レスポンスに疲れて、ただ「私信」を書いてみたいと思い、実は2004年から設けているこのブログを復活。